楽しいことを求めるのでなく、自分を楽しむ

カテゴリー think

2013年は少しフラストレーションが溜まっていた年だったな〜と改めて感じます。
夏ごろからはBASEに正式に加わり、仕事面に関しては申し分なくやりがいは感じているのですが、プライベート面において全然動けなかったなと今更ながら反省しています。

やはり物理的な意味で全然移動ができてなかったですね、、海外旅行にしてもお隣の台湾に少し行ったくらいですし、週末も仕事や飲みばかりのルーティンで健全な週末らしい週末を過ごせなかったなと..


何度かこのブログにも書いてるのですが、僕は性格的にせこい人間だと考えています。それは決してお金にというわけでなく、今この瞬間を楽しまないと損だ!といつも考えており、楽しいことは全部やる!という感じです。この部分においては他人に比べ貪欲な部分があるのかなと。。どちらかというとせっかちな性格ですし、誘いはあまり断ることはありません。とはいっても去年の週末の夜は、平日の忙しさを発散するよう誘われるがままにわいわいと飲み歩く日々が多かったなぁ感じています 笑 そして次の日は二日酔いという結果…

平日は仕事が楽しいからいいのですが、多少仕事が落ち着く休日は(仕事をしながらも)誰かからの誘いに飢えていました。いや、”お祭り的な”楽しさに飢えていたというイメージが正確でしょう。一人ではあまり遠出やイベントに行く気にはなれず常に誰かからの「楽しい誘い」を待っている受け身の姿勢があったと、振り返るとそう感じます。このエントリーのタイトルにもありますよう、外に楽しいことを求めていたんですよね。

誰と会って楽しもうか、どこにいって楽しもうか、何を食べて楽しもうか、といった形で外的な要因でこの瞬間を楽しもうと頑張りすぎていたのかなと思います。なので、誰とも会わずどこにも行かない日などはとても寂しい気持ちになるんですよね.. みんなとわいわい楽しんだ翌日の誰とも会わない日はとてもつまらなくなったり..

最近、高城剛の以下の言葉によって、楽しさを外に求めるのはやめて、もっと自分を楽しんでみようと考え始めました。

誰かやなにか(例えばテレビやネットなど)に、「楽しませてもらっている」と、つまらなくなってしまうことは、増えると思います。しかし、自分で自分を「楽しんでいる」と、ほとんどの場合、つまらなくなることはありません。実は近代社会の錯覚は、外に基準があるように作っているだけで(広告の基本手法です)、それが共同幻想なんだと僕は思っています。

非日常な楽しさばかりを外に求めるだけでなく、究極に身近な存在である自分自身をもっと能動的に楽しむべきだと、この言葉によってガツンと悟った感じです。そうすることで、外的要因からくる楽しさもこれまでより楽しめると思いますし(笑)、誰とも会わない一人の時間をもっと有意義に過ごせると思います。コントロールできない他人に対して快楽を求めるわけでなく、自分自身とのコミュニケーションで楽しめるようになりますので、心の安定も図れるのかなと。変にポジティブになるわけでなく、自分を面白い人間と捉え、日々の行動の意味を考えながらそこに楽しみにを見出してきたいですね。こういったブログを書くなどして考えを整理するのもいいのかなと思います。

2014年は焦燥感にかられた「楽しさ」を追い求めるのでなく、もっと落ち着いて自分を楽しんでみたいと思います。勢いを落とすつもりはありませんが、楽しさの質をよりよくできるかもしれません。一人でもう少し遠くに行ってみようかな..

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。